生来の天邪鬼が片上醤油を継いでたどり着いた、応援と頑張りが循環するものづくり。

文=西川和哉(西川養鶏場)
私は櫛羅(くじら)という集落で、採卵養鶏業を営んでいます。この生業は祖父が始め、私が3代目になります。
養鶏とは、簡単に言えば、鶏の雛を仕入れ、育て、産卵してもらった卵を販売し、産卵数が採算ラインを割るようになったら食鶏(食用の鶏肉)に出して利益を上げていく仕事です。養鶏場によって違うのですが、私のところは年3~4回、初生(生まれた次の日)の雛を導入しています。
産卵は120日齢頃から始まり、食鶏に出すのは640~700日齢です。その間、餌と水を与え、定期的に清掃、計画通りにワクチン接種、鶏の成長に合わせた移動をしていきます。当たり前のことですが、1日も休むことはできません。
若い頃の私は、養鶏という仕事は正直「そのうちやってもいいかなぁ」程度にしか思っておらず、大学を卒業した後は印刷会社に勤め、営業をしていました。しかし、私が28歳のときに親父が癌で亡くなりました。56歳でした。
あまり病院に行かない親父で、検診にも行っていなかったので、発見が遅く、癌がわかったときには「余命3か月」と医師に告げられました。直前まで「調子悪いなぁ」と言いながらもバリバリ働いていた親父は、その後も変わらず養鶏をしていくつもりで段取りしていたのですが、即入院することになりました。
前述の通り、年に3~4回雛を導入していて、約2年飼育するので、全部で7世代の鶏がいます。
とりあえず、今いる鶏をどうするか。
思い悩みましたが、私は会社を退職して、跡を継ぐことを決めました。得意先も持たせていただいていたので、残務処理と引継ぎ等で3か月間会社に行きながらのスタート。母は私が20歳のときに死去していたので、妻、祖父、弟という家族みんなで手分けして鶏を飼育し、親父の友人や親戚の助けもあり、何とか凌ぐことができました。
幼い頃から親父の手伝いはしていたので、ずぶの素人ではなかったし、幸い急死ではなかったので、親父に色々と聞く時間があったのは救いでした。勝手な話ですが、親の仕事を親と一緒にするのは「まっぴらごめん」だったので、何か月後には親父がいなくなって養鶏をするという状況は、跡を継ぐ場面としては、一番ありだったのかもしれません。
そんな親父が残してくれたものはたくさんありますが、一番大きかったのは、ブランド卵の『麦花石美人たまご』です。出荷組合を作って試行錯誤の末にできた『麦花石美人たまご』を受け継いで、幾度となく餌を見直し、今に至ります。
『麦花石美人たまご』は、必ず与えなければならない餌が3種類で、あとの餌は各々の組合員で違うので、同じ『麦花石美人たまご』でも、養鶏場によって少しずつ違います。
私のところの『麦花石美人たまご』は、御所市内外の料理店や小売店、農産物直売所に卸しており、自宅でも販売しています。2021年には「御所ブランド」にも選ばれました。宅配便で全国発送しており、御所市のふるさと納税の返礼品にもなっています。ぜひ一度、ご賞味いただけたらうれしいです。
私はもともと飽き性です。同じことを延々続けるのが苦手なのです。養鶏って延々同じことの繰り返しのようなのですが、餌を見直すことはもちろん、給仕のタイミングなど、実は色々と工夫できるところがあります。従業員がほぼ家族の小さな養鶏場だからできる、生産性度外視、品質最優先で日々精進しています。
養鶏では、2つの生産物ができます。ひとつは卵、もうひとつは鶏糞です。この鶏糞をいかに上手に処理するかが養鶏場には大きな課題になります。
農家に販売するのが一般的なのですが、どう使えば効果的かがわからなかったので、自分で野菜を作ることにしました。趣味の園芸兼鶏糞をどこまで使っても大丈夫かの実験圃場として500㎡の畑を耕作し、自家消費しきれない分は直売所で販売しました。それがだんだんと圃場が増えていき、今では5000㎡を耕作しています。
子どもたちからは「もう趣味の園芸言うたらあかんで」と言われていますが、鳥インフルエンザが発生したときのバックアップになればとの思惑で、今も野菜を作っています。
養鶏は親父の手伝いで、百姓は祖父の見よう見まねで、どっちも「やったらわかる」と教わりました。それに加えて、養鶏でも農業でも、自分なりに心がけていることが一つあります。「原点に戻って考える」です。
原点とは何か? 野菜なら原産地、鶏なら野生です。その頃の状態を考えることは、なぜ今この植物は生育が悪いのか、なぜこの鶏は機嫌が悪いのかがわかる近道になるような気がしています。
そして、人間も同じようなところがあるような気がします。人間の原点とは? 古代の豪族がこの地に本拠地を置いたのにも、様々な要因があったのでしょう。
御所は、めちゃくちゃ田舎ではないですが、都会ではありません。季節ごとに虫の声や鳥の声が聞こえて、田植えの頃は蛙の大合唱がうるさいくらいです。ツクツクボウシが鳴きだしたら夏休みは終わり。鶯は、初めは鳴くのが下手くそです。
「雲雀(ひばり)が少なくなった」と言われていますが、そこらへんにいますし、雀が減ったって嘘やと思うぐらい大群で竹林に帰っていきます。夜には梟みたいな鳴き声も聞こえます。猪は見るけど、今のところ熊は見ていません。
住むにはいいところです。
西川養鶏場代表。1977年、櫛羅生まれ。大学卒業後、印刷会社で勤めるも、父親の病気を機に退社。家業の西川養鶏場を継承し、現在に至る。事業で出る鶏糞の活用法を探る実験と称して野菜栽培を始めると、徐々に圃場が増えていき、今では5000平方メートルを耕作している。夢はゆる~い自給自足。