「ほどらいこ」の精神を胸に。葛城酒造を承継し、文化の一端を担いたい。

  • 事業者

文=谷口明美(葛城酒造)

私が事業承継した「葛城酒造」は、大和平野の西南部に連なる金剛・葛城山麓の名柄という地域にある。

最寄駅まで距離があるため、交通手段はもっぱら車だ。奈良市内や大阪方面から御所市に近づくにつれ、渋滞がなくなり、だんだんと走っている車自体が少なくなる。やがて右手に葛城山、そして金剛山の峰々が視界に入ってくる。

車から見える山々は、時に雲の合間から光が差し込んでいたり、虹がかかっていたり、雪に覆われていたりして、季節に応じて美しい表情で迎えてくれる。御所市内に入ると、まるで空気のベールをくぐるかのように、私も心もだんだんと落ち着いて、「帰ってきたな」と感じる。

雨上がりのときには、これらの山々から水滴の煙たちが茫々と立ち昇り、雲に帰っていく。この街に来た頃は珍しい風景なのかと思っていたが、日常的に見ることができる。

葛城酒造の代名詞である「百楽門」は、この金剛山系の地下100メーターから汲み上げた伏流水から造っていて、豊かな大地の恩恵を最大限に活かしている。

この恩恵にあずかるのは私たちのような酒屋だけではない。弊社の近所には梅本豆腐さんや片上醤油さんがある。いずれも水なしではできない商いだ。そんなお商売が今も続けられていることが、この地に流れる水がおいしい証拠だと思っている。

片上さんの醤油をかけた梅本豆腐をアテに百楽門を飲めば、それだけで1日が幸せに感じられる。大阪では寛げない私も、ここでは寛げる。もうすっかり私の居場所になっている。

御所市のプラチナパワー

葛城酒造の社員は4代目の久保伊作さんと私の二人だけ。

事務作業、経理、出荷、営業などを二人でこなしているが、酒造りは二人だけではできない。マンパワーが必要だ。造りの間だけ御所市のシルバーの方々に手伝いに来てもらっている。

平均年齢70歳。私よりも段取りを熟知し、設備の故障箇所がいつの間にか修理されていたりする。私が重いものを持とうとすると、「そんな重いもん持たんでええ!」と言って奪われる(笑)。それぞれが得意分野を持ち、テキパキと働いてくれる頼もしい面々。もう何年も続けて来てもらっているシルバーの方々のことは、もはやシルバーではなく「プラチナ」と呼びたい。

だが、全国の市町村同様に御所市も毎年人口が減少している。ということは、シルバーの人の人数も減少していく。シルバー人材センターからは「もう派遣できない」とまで言われている。ものすごく私的な意見なのは重々承知の上だが、皆さん御所市に移住してきてほしい。そして我々と一緒にお酒造りをしませんか?

黒歴史からの脱出

私は大阪市で30年ほど会社員をしていた。最初に勤めた証券会社は自主廃業し、その後保険会社に転職した。酒造りとは一切関わり合いのない世界である。

私の暗黒の30年。語弊があるかもしれないが、職同一性障害と名付けたくなるほど、ものづくりの仕事がしたいのに、何をつくりたいかが分からなかった。自分のつくりたいものを発見するため、いろいろな習い事をした。陶芸、和裁、洋裁、つまみ細工、パン教室。数回で終わったもの、何年も習いつづけたものもあるが、そのいずれも私の生涯の仕事になるには至らなかった。

一子相伝の家庭を羨ましく思っていた時期もあった。惰性で働いていたが、辞めて無職になる訳にもいかず、無為に長い間会社員生活を送っていた。まさに黒歴史、暗黒時代。本当に息苦しい20~40歳代だった。

50代を目前にし、いよいよ自分のやりがいはもう見つからないのだろうと半ば諦めていて、その頃には「臨終のときには絶対に後悔して死ぬんやろな」と、よく考えていた。逆にいうと、それほど「ものづくり」を渇望していた。

ちなみに私はお酒がものすごく強い。ジンもウォッカも水で割らない。晩御飯の内容に応じて、ワインやリキュール、洋酒に焼酎などを飲む。それがある日、いつものように妹宅で晩御飯前の晩酌タイムのときのこと。その日の献立は和食で、日本酒だった。旅行に行った際に買い求めた日本酒。パッケージ買い。ワクワクしながらいただくも、なんか思ってたのと違う。

がっかり。そして、それは突然、唐突に降ってきた。

あーそうか、自分で日本酒造ればええんや、造ろ。

そう、日本酒造り。これが私が生涯を注ぎ込める仕事を見つけた瞬間だった。

選択肢は奈良一択

日本酒造りをするにあたって、いろいろ調べた。結果、酒造免許が必要であり、新規では取得が非常に困難であることが分かった。ではどうする? さらに調べると、これしか道がないということが判明した。M&A(主に企業の合併買収のこと)による事業承継。これしかないならやるしかない。

プラットフォーム型のM&Aの会社もある。だがもっと調べると、都道府県に1つずつ「事業承継引継ぎ支援センター」というものがあることが分かり、事業承継を望む企業を無料で紹介してくれるという。

事業承継するにあたり、当初は最低でも複数社の酒蔵と接触を持つことが定石だろうと考えていた。それであれば、複数の都道府県の支援センターに登録すべきである。

頭では分かっていた。ただ私が登録したのは奈良県のみ。一択だった。酒造りをしようと思ったときから、造るなら奈良でと決めていた。直感しかない。カマキリが体内の寄生虫によって水辺に誘われるように、私の気持ちはただただ奈良に向かっていた。

時宜に適う

登録して間もなく「奈良県事業承継引継ぎ支援センター」から電話がかかってきて、一件紹介するという。早すぎる連絡だったが、もはや私には心の準備など必要なかったので、すぐにその蔵を紹介してもらった。それが葛城酒造であった。

今も代表と杜氏を兼務してもらっている久保さんに初めてお会いし、いろいろお話しした。蔵の中も見学させてもらい、経営状態など現状もつぶさに教えてもらった。

ここを譲ってもらおう、ここで酒を造ろう。

もう初回で決めた。定石はどこかへいった。会社もすぐに退職した。まあこれが葛城酒造との出会いである。全ての座標が一点で交差した。人、場所、時間。30年もの憂鬱なもの思いであったが、その間、社会でいろいろな経験を積み、これらの経験が酒造りの内外で役に立っている。無駄と思えることが無駄ではなかった。これが「時宜に適う」ということなのだろう、と今では思える。

まっぴらごめんです

酒蔵を承継するにあたり、継承者と被継承者間で株式譲渡など様々な書類のやりとりが必要になるのだが、その書類作成のために仲介業者が間に入ることになった。その会社の担当者は、私が経営も酒造りもやったことがないことを知るとひどく驚き、心配したのだろうが、発する言葉の端々に「あなたでは無理でしょう」的なニュアンスがプンプン臭っていた。

それでも私は意に介さなかったが、ある日の打ち合わせのときにこう申し出があった。

うちは酒蔵再建の経験もあるので、うちから出向という形で酒蔵で働いてみてはいかがですか? もちろん給料も出します。

私の脳裏に、てにをは、ですます、数字合わせに苦戦しながら出向元への報告書を作っている姿が浮かんだ。またあの暗闇に戻るのか。その瞬間こう言い放っていた。

まっぴらごめんです。

そう、私は私の足で立つ。もうあの世界には絶対に戻らない。これが過去との完全なる決別だった。

伝統文化の一端を担う

日本酒は水と米からできている。だから稲作が普及しなかったら酒文化も存在しない。稲作は弥生時代から始まり、史料がないため確証はないが、酒もこの頃から存在したと言われている。

大宝律令によって日本酒の醸造が体系化されてくるのが飛鳥時代。鎌倉時代に入ると特権階級以外の人々にも酒を飲む文化が広がる。室町時代には造り酒屋の数も一気に増え、この時代には今日の段仕込みや、乳酸菌発酵の技術、火入れによる加熱殺菌、木炭による濾過などが行われていたという記述がある。データの解析技術や顕微鏡などがない時代でありながら、である。

先人たちの知恵によって確立されてきた最先端の技術力が、今や日本の伝統文化となった。ワインやビールなどいろいろ種類のある酒の中で、私がものづくりするものとして日本酒を選んだ理由がこれだ。伝統文化の一端を担う。これが私の原動力のひとつになっている。

そして奈良市にある菩提山正暦寺は「清酒発祥の地」と言われている。これもまた、私が奈良に惹かれる理由のひとつだろう。

「ほどらいこ」の精神を胸に刻んで

奈良には「ほどらいこ」という言葉がある。「ゆっくりいこう、ぼちぼちいこう、適当に」という意味である。

私は大阪育ちなので、関西圏にある方言で知らない言葉はないと思っていたが、この言葉は知らなかった。暖かく美しい言葉だなと思う。蔵の作業中でもたまに使う。「その分量は、ほどらいこでええで」は「そんなにきっちり計らんでええで」という意味だ。

大阪からここ御所市に酒造りに来て3年目を迎えた。葛城酒造が将来あるべき姿に従って、成すべきことを成す。これが私の役目。焦るが焦らない。行き先は分かっているが、ショートカットはしない。

「ほどらいこ」の精神を胸に、造りの一瞬一瞬を脳裏に刻んで進んでいこうと思う。

Taniguchi Akemi

寄稿者の写真

1969年、大阪生まれ。30年にわたる会社員生活を経た2020年、明治20年創業の「葛城酒造株式会社」を第三者事業承継し、代表取締役に就任。葛城酒造の看板銘柄「百楽門」の味を守るべく、経営と酒造りに日々奮闘中。