ふるさとの誇り、おもてなしの心。御所まちを照らしてきた「霜月祭」を受け継ぎ、まちの未来を見つめていく。
文=堺哲也(千代酒造株式会社)
北海道で生まれ育ち、山梨で就職した私が奈良に住んで31年の月日が経ちました。
奈良に来たのは嫁の実家の家業である酒造りを手伝うためです。婿養子にはならなかったので、後を継ぐという感覚は当初から少なかったかもしれません。

北海道は常呂郡佐呂間町という町に生まれ、高校卒業まで生家で暮らしました。常呂(ところ)と言えば今は“カーリングのまち”として知ってくれている方もいるかもしれませんが、常呂町自体は2006年に合併して、今では北見市の一部になってしまいました。
佐呂間は日本で3番目に大きな湖「サロマ湖」があり、ホタテやカキの養殖が盛んで港町的なイメージがありますが、実際は酪農や農業が主たる面積を占めた田舎町です。その中の若佐という字(あざ)に生家がありました。小学校の同級生は9人、3つの小学校から集まってきた中学校の同級生は18人という、そんな小さな町が故郷です。
高校を出て帯広で一人暮らしをして大学に通い、山梨のワイナリーに就職しました。就職の際に考えていたのは「やってみなければどんな仕事もわからないよね」ということで、ワイナリーの求人がたまたま大学の研究室にきたのでそこで決めたという感じです。ただ、日本酒の蔵には行くまいと決めていたので、それほど日本酒業界へのイメージは悪かったのだと思います。

ワインの研修先でたまたま嫁と知り合って結婚し、日本酒の世界に入るなどとは思ってもいませんでしたが、1995年の年末、28歳のときに奈良に引っ越してきました。

大和高田市に住まいを構えたこともあり、御所には仕事をしに来ているという風なので、御所について知っていることも少なければ知っている人はもっと少ないのが現状です。

嫁の実家の家業は「千代酒造」で、一言で言えば日本酒を造っています。





30年前までは但馬から冬場だけ出稼ぎに来ていた杜氏さんと蔵人さんだけで造っていましたが、私が家業を手伝い始めた1995年は年間雇用の社員も酒造りに参加するようになった転換期でした。

当時も日本酒の需要は減り続けており、斜陽産業ではありましたが、今を思えば当時はまだ日本酒が売れていたと感じます。2000年までは大手酒造メーカーの下請けの仕事がメインでしたが、その後は自社ブランドを育てることに必死に取り組み、「篠峯(しのみね)」「櫛羅(くじら)」という名で御所でも知ってくれている方が増えたように思います。

また、1996年からは山田錦を自社栽培し、農業もする酒蔵として歩み始めたことが今では大きな財産となっています。



奈良に来てからの30年を支えてくれたベースになったのは、元御所市長である東川さんがまちの酒屋さんだったときに紹介してくださった青年会議所活動とその人脈です。企業経営者のご子息が多く活動されている青年会議所で、多くの友人や先輩から様々なことを学ばせていただきました。この学びがなければ酒蔵を失ってしまっていたかもしれないなと思います。それぐらい会社を取り巻く環境は厳しかったです。

多くの会社が起業し、新しい企業が隆盛を図る一方で、日本酒造りに限らずモノづくりの会社、地方の会社、中小企業などがどんどん減っている時代。今の目標は「千代酒造」を100年続く会社にする、その土台をつくることです。酒蔵はその土地を離れることができません。米は運ぶことはできても、水や風土を運ぶことはできないからです。

日本も昔は多くの酒蔵があって、多くの土地に酒蔵があることが普通でした。他にも麹屋さんや味噌屋さん、醬油屋さんがたくさんあって地方に根づいていましたが、残念ながら、今ではそのような文化や日常は失われてしまいました。
今、「千代酒造」も御所の宝だと思ってくれている方は残念ながら非常に少ないだろうと思います。しかし、これから100年続いたときには“地域の宝”になっていることでしょう。ただ酒蔵が続いているだけでは“地域の宝”にはならないかもしれませんが、よい酒を造るよい酒蔵ならば、“地域の宝”になる時代がやってくると信じています。そうなることこそが御所への恩返しになる、と思って仕事をしています。

千代酒造は葛城山の麓の「櫛羅」地区にあります。現在、酒蔵の5町歩強の田んぼで山田錦を栽培しています。「櫛羅」の風土を醸し、おいしいお酒を造り続けていきます。



「千代酒造株式会社」代表取締役社長。北海道佐呂間町生まれ。帯広畜産大学を卒業後、勤務した山梨県のワイナリーで妻と出会い結婚。妻の家業である「千代酒造」を継ぐために奈良へ移り住み、「篠峯」や「櫛羅」といったブランドの立ち上げに奔走。1996年からは、5町歩強の田んぼで山田錦を自社栽培するなどしながら、酒蔵のある櫛羅地区の風土を醸す酒造りを続けている。