生来の天邪鬼が片上醤油を継いでたどり着いた、応援と頑張りが循環するものづくり。

  • 事業者

文=片上裕之(片上醤油)

私は御所市森脇で「片上醤油」という小さな醤油屋をやっています。

先にこちらで取り上げていただいた片上公美の夫です。妻の書いたものと重複しないようにすると、醤油屋の四方山話のようになりますが、お付き合いくださいませ。

生来の天邪鬼が醤油屋になるまで

片上醤油は私の祖父が昭和6年に創業し、細々ながら真面目誠実に90年余り事業を継続してきました。

私が高校2年の夏、片上醤油を継ぐはずだった伯父が仕出し・給食の事業を始め、その息子の従兄も醤油屋はしないと決めたため、次男だった私の父親が祖父母と同居することになり、高校2年の夏休みに(私からすれば)突然醤油屋の孫になったのでした。それまで私は醤油とは縁のない、大和高田市生まれの外孫だったわけです。

私は生来の天邪鬼で、高校生のときから命令されることには逆らってしまう癖がありました。そんな変わり者の前に(人に命令されることのない)自営業の醤油屋という生業が転がってきたわけです。銀行勤めの父親は「醤油屋は継いでも継がなくてもよい」と言ったのですが、これも「継いでくれ」と言われていたら継がなかったと思います。親は自分の子どものことをよくわかっていました。

奈良県の工業試験場で、醤油屋の面倒をよく見てくれていた奥井先生という方が、「東京農業大学で醸造の勉強ができるからそこに行くとよい」とアドバイスをくださって、高校の担任の先生が「お前がこんな(良い)生徒だったら俺はどれだけ楽できたか」と嘘八百の推薦状を書いてくれて、無事東京農大の醸造学科で学ぶことになりました。

大学では案の定、クラブの部室に入り浸る絵に描いたような出来損ないの学生でしたが、生協の本屋でたまたま見つけた『醤油醸造の最新技術』(日本醸造協会)(これは完全プロ向けの技術本で20年に一回くらいしか刊行されません)という本を暇つぶしに読んでいたら、成績は悪いがなぜか醤油のことはよく知っている学生になっていました。

研究室の教授に「こんな態度や成績では卒業させないぞ」と脅されながら、それでも無事大学は卒業させてくださいました。親父が上京してどこかで教授を接待したようです。まあ、そんな時代でした。今になってみると、どれだけ周囲に迷惑をかけていたのか。赤面の至りです。

で、家業に戻って、さあ仕事を学んでいこうという矢先に大事件が発生しました。当時の片上醤油にとって大口のお得意先がいきなり倒産・操業停止となりました。当然注文は途絶え、売り上げは激減します。

このとき、祖父は83歳。よくもそんな年まで醤油屋の重労働を先頭切ってやっていたものだと思いますが、やはり事業継承が一代飛んだことの悪影響は随所に出ていて、蔵の中の設備は古いものだらけ、製品の品質も昔のまま、営業もできておらず、お客さんから「お宅まだ醤油作ってるの?」って聞かれる始末でした。「廃業戸閉(とじめ)ってこと? 失礼千万な」って思いましたが、片上醤油はそんな認識を持たれていたのです。

本醸造無添加の本格醤油が誕生

そんな八方塞がりの最中、奈良市内の醤油屋さんで、醤油本来の原料である丸大豆を使った本醸造無添加の醤油を一般的な価格の倍の値段で販売されているところがありました。この当時、醤油は普通、大豆の油粕(脱脂加工大豆)を原料としていて、大豆油を取っていない元の大豆を使った醤油は稀でした。

大学の卒論研究でも同じような丸大豆醤油を作っていた私にとっては、それが当たり前の醤油だったので、当時片上醤油が売っていた一般的な価格の醤油の倍の価格で売れる本醸造無添加の醤油を作りたいと思いました。

蔵の中の設備は古いものばかりと書きましたが、すべてが「古い=悪い」訳ではありません。大正時代に作られた吉野杉の大きな木桶が当時20本ありました。大学を出たての私は、祖父と長年片上醤油を支えてくれた番頭さんの指導のもと、この木桶に最初の醤油の仕込みをしました。

最初の年に仕込んだ数本の木桶の中で、素晴らしい香りの醤油が(偶然)できました。いや、できてしまいました。経験も実力もない若造に醸造の神様が悪戯をしかけたようです。私はビギナーズラックの名手?なのですが、以後40年醤油を仕込み続けるも、このときの香りをしのぐ醤油は造れていません。この醤油諸味を絞って、翌年、現在の片上醤油のメイン、基本の醤油である「天然醸造醤油」ができました。

この醤油の完成を待っていたかのように、取引のあった京都のソース屋さんが、勉強熱心な酒販店グループと兵庫の高級スーパーを紹介してくれました。どちらもお取引いただき、今も継続しています。このような世間の注目を浴びているお店に営業する方法など皆目わからないでいた私でしたが、片上醤油を担当していたソース屋さんの熟練の営業さんが徒手空拳の若者を助けてやろうと思ってくださったのです。

このことは非常に大きな出来事で、こだわりの製品、商品を作ることはできても、作っただけ売り切る、販売を軌道に乗せることができないと作り続けることはできません。自己満足か商売か、分水嶺というわけです。

本来の真正な原料を使った無添加無調整の製品が求められ始めていたという時代背景はありましたが、営業に来られるたび、祖父が出入り業者扱いせず、とっておきのお茶をご馳走していたことのお返しだと、後にその営業さんは教えてくれました。

困りごとが解決するものづくりへ

数年して、天然醸造醬油が軌道に乗ってきたころ、奈良県工業試験場(現 産業総合支援センター)から、技術アドバイザー制度を活用して、先述の奥井先生の指導を受けないかと声をけていただきました。そろそろ新製品の開発をしたかった私ですが、何を作ったらよいのか、どうすればよいのか、わからないでいました。

奥井先生はこいくち醤油(天然醸造醬油)ができたのだから、うすくち醤油に取り組んではどうかと仰って、本当に懇切丁寧にご指導くださいました。こちらもやるからには半端なものは造らないと頑張りました。

一般的なうすくち醤油は旨味が少なく、塩味が強くて、出汁をふんだんに使えるプロの料理人向けというか、一般の人には少し使いにくい一面があります。旨味がちゃんとあって、塩分が濃口並みで色だけ淡い。そんなうすくち醤油があったらもっと多くの人がおいしい煮炊き物やお吸い物を作れるのではないか。この気づきは私にとっては画期的なことでした。

自分のこだわりで精一杯作れるものを作る。それもよいけれど、作ったものでお客さんの困りごとを解決すれば喜ばれて品物が売れていく。そんな新製品の作り方を学んだのでした。いろいろな工夫をして、年数もかかりましたが、うすくち醤油でも旨味の強い製品ができあがりました。超高品質のうすくち醤油は市場にほとんどなく、今では片上醤油を特徴づける看板商品になっています。

その後、自家用たまり醤油、重ね仕込み醤油という、超濃厚な醤油を開発し、ラインナップの充実は一段落したはずだった(させたかった)のですが、意に反して醤油の種類は増え続けます。なぜかというと、色々やっている、色々造れる醤油屋として、いろんな依頼が入ってくるようになったのでした。

貴重、希少、唯一無二、そして「ありがとう」

手始めに、得意先から「北海道士別の青大豆を醤油にしてくれませんか?」という依頼がありました。青大豆というのは栽培が難しい、希少な大豆でそれを用いた青大豆醤油は現在でも片上醤油ともう1社しか造っていません(その後、青大豆は北海道産から奈良県産に変更しています)。

また、生協のような共同購入会の依頼によって、有機原料を使った国産有機醤油(有機JAS認証)を作り始めました。国産有機原料で有機認証で木桶発酵の条件を備えたうすくち醤油は当時片上醤油だけでした。現在でも2社のみです。手間がかかり、神経をすり減らして作るうすくち醤油が2種類になり、大変なのですが、度々の品切れにもかかわらずお客さんは棚を空けて再販売を待っていてくれています。こんなこと、普通はあり得ないです。

宗教関係の方から、「修行で作った無農薬無肥料の大豆、小麦で特別に醤油を作ってほしい」

という依頼も。こんなにたくさんの種類を、こんな小さい規模で作っているのは非常に珍しいです。大変です。面倒くさいです。しかし、唯一無二、ここにしかないというような醤油を手掛けるうち、そうしたことをしていると説明したときにお客さんが「すごいねぇ」と驚き、お買い上げの後「ありがとう」と言ってくださるようになりました。

おかしいですよね? お礼を言うのはこっちのほうなのに……。

昔ながらの古い木桶を使い、入手が難しい奈良県産大豆を使用し、麹作りは針の穴を通すような温度管理をするために3日ごとに寝ずの番をして、手間暇惜しまず発酵の世話をして……寒いときには冷たい仕事が、暑い季節には熱い仕事が多くて……それを聞いたお客さんは気の毒に……と思ってくださっているのかもしれません。

原料や醤油の製造の手間暇、技術、伝統や心意気、そうしたものを価値あるものと認めて、値段は高いけど、それ以上の価値があると認めてくださったときに出る言葉が「ありがとう」「頑張ってね」なんだと思っています。「ありがとう」と言ってもらえた醤油屋は頑張って製造する醤油がよくなり、またお客さんが喜んでくださるという、応援と頑張りのグルグル回りの好循環は本当に(世に珍しいという意味でも)ありがたいと思っています。

大鉄砲大豆から広がる地域貢献の輪

ここ3年ほど、奈良県在来種大豆「大鉄砲」を使った醤油を製造しています。

大鉄砲大豆は超大粒で非常に美味しい品種ですが、栽培や収穫に手間暇がかかり、収量も少ないことから絶滅しそうになっていました。

大和郡山の豆腐屋さんがこの大鉄砲大豆に惚れこみ、田原本の農家さんと協力してたった10㎏しか残っていなかった種を増やして復活プロジェクトを進めています。徐々に栽培面積を広げ、収穫量も増えましたが、このおいしい大豆を残し、広げるには豆腐だけで独占してはだめだと、湯葉、味噌、きな粉……と、用途と仲間を広げ、そこに醤油も入っていました。

大鉄砲大豆は播種(種まき)や枝豆祭り、収穫祭を、農家さんだけでなく、加工業者、加工品のユーザーである飲食店やシェフ、料理人さんたちと共に圃場で行い、その仲間にだけ供給されています。お金を出すだけでは買えない大豆なのです。その醬油製造を片上醤油がさせていただくことになりましたが、お声がけいただいたのも、それまで色々やっていたお陰です。

しかし、このことによる広がりは「大鉄砲醤油」という商品が一つ増えただけではありませんでした。地域の良いものを残し、未来に引き継いでいくことのお手伝いをしていると、その取り組み、姿勢を認識・評価していただけるようになりました。

これは非常に大事なことで、利益の一部を寄付したとか、工場の周囲を掃除していますとか、そういう地域貢献も大事なことですが、この大鉄砲の取り組みは、片上醤油の本業自体が地域のお役に立つようになったという、妻が先に書いた「毎日面白いよ」の記事とも重複しますが、大変ありがたく、そして重要な出来事でした。

今年、大鉄砲への取り組みはさらにもう一歩、踏み出そうとしています。地元御所市の農業委員会の方々が休耕田・耕作放棄地対策として、大鉄砲大豆の栽培を検討してくださいました。これまでコスモスの花を植えたりされてきましたが、やはり農地であるからには何がしかの収穫があった方が好ましいとのお考えでした。

普通、収穫したものは販売先を見つけねばなりませんが、大鉄砲大豆に関しては需要に対し供給が不足している状態なので、問題ありません。大鉄砲大豆の栽培を一手に引き受けてきた田原本の農家さんも仲間が増えるなら大歓迎、心強いと人手でやれば大変な播種を田原本から播種機を運んでやってくださいました。

そして、農業委員の方だけでなく、片上醤油の近隣の農家さんたちも「それは良い考えだ」と理解・応援していただいています。大体物事には利害得失とか、裏と表とかがありがちですが、この大鉄砲の取り組みに関しては皆が輪になって背中を押し合い、誰かが犠牲になるようなことはなく、皆が喜ぶ、世にいう三方良しになっていると思います。

誰かに面倒くさいことを押し付けて、自分はおいしいところをもらおうという者がいないからできることですが、ふと気が付けばこういう清々しさ、面白さ、楽しさって最近の御所市にいっぱいあると気が付きました。妻に続いて私も言います。

仕事って楽(らく)じゃないけど、楽しいよ!

Katakami Hiroyuki

寄稿者の写真

1960年、大和高田市生まれ。県立五條高校卒業後、東京農業大学醸造学科へ入学。調味食品研究室所属。大学卒業後は祖父の醤油醸造業を継承。木桶で発酵熟成した、真正な原料の無添加無調整の高品質醤油の製造に励む。最近は地域の異業種、全国の同業者との横連携が面白くて仕方がない64歳。